武術の深淵に潜む「自縄自縛」という怪異――八光流柔術の理合いと妖怪「絡新婦」の糸

古来、日本の武術は単なる力比べではなく、人間の身体構造や心理の隙を突く「理合い(りあい)」の追究でした。


その中でも、大東流合気柔術の流れを汲み、独自の進化を遂げた「八光流柔術」には、初心者が驚愕し、熟練者が生涯をかけて探求する奇妙な術理が存在します。

​その代表格とも言えるのが、「自縄自縛(じじょうじばく)」という型の中で繰り広げられる現象です。


​文字通り、自分が放った縄で自分を縛り上げてしまうかのように、相手が動けば動くほど、自らの力によって技が深く極まっていく現象。


この不可思議な身体技法は、どこか私たちが古くから恐れ、同時に魅了されてきた「妖怪」の怪異に通じるものがあるように想います。


​今回は、八光流の稽古の中で見出される「自縄自縛」の奥深さを、怪しくも美しい妖怪「絡新婦(じょろうぐも)」の概念と絡めながら、ブログとして考察してみましょう。


​1. 力めば崩れる、「自縄自縛」のジレンマ

​八光流の型を稽古していると、誰しもが一度は「自縄自縛」の壁にぶつかります。


​相手を制しよう、極めようとして、こちらから無理矢理に力を込めて技を掛けにいくと、どうなるか。


答えは明白です。


技に「無理矢理感」が生じた瞬間、相手の身体は危険を察知して防御反応を起こします。こちらの力みが相手に伝わり、軌道が読まれ、最悪の場合は技を返されて(カウンターを食らって)自分が崩されてしまうのです。


​-武術における力みは、相手への「合図」である-


​八光流で求められるのは、こちらから力でねじ伏せることではありません。

技を「ある程度」の絶妙な塩梅で掛け続け、相手の自由を奪いすぎず、かといって完全に解放もしないという、極めて繊細な接触(触れ)を維持することです。


​この状態のまま、相手が「ここから逃げよう」「反撃してやろう」と何か余計なことをしようとした瞬間、相手の肉体は勝手にロックされ、激痛とともに極まっていく。


こちらはただ、その場に正しい理合いのまま存在しているだけなのに、相手が自滅していくのです。


​この「動こうとすればするほど、自分の肉体が罠にはまっていく」という不条理な感覚。これこそが、古来より怪談に語られる妖怪の仕業に見て取れます。


​2. 獲物をもがくほどに絡め取る、妖怪「絡新婦」の理


​ここで、ひとつの妖怪を召喚してみましょう。鳥山石燕の『画図百鬼夜行』にも描かれる、蜘蛛の怪異「絡新婦(じょろうぐも)」です。


​絡新婦は、美しい女性の姿に化けて人間を惑わし、気づかぬうちに自らの巣へと誘い込みます。彼女が張り巡らせる蜘蛛の糸は、鋼のように強く、しかし同時に風に揺れるほどしなやかです。


​絡新婦の狩りの恐ろしさは、以下のプロセスにあります。


​初期接触: 獲物は、自分が糸に触れたことすら気づかない(あるいは、大したことのない細い糸だと侮る)。


​違和感と抵抗: 何かおかしいと気づき、そこから逃れようと手足を動かす。


​自縄自縛: もがけばもがくほど、その動いたエネルギーが糸をさらに体に巻き付け、皮膚に食い込ませ、自らの自由を奪っていく。


​絡新婦自身は、獲物を力任せに押さえつけているわけではありません。ただ、精緻に計算された「糸の網(構造)」を維持しているだけです。獲物が暴れれば暴れるほど、獲物自身のパワーが自らを締め上げるエネルギーへと変換されていく。


​八光流の「自縄自縛」の型は、まさにこの絡新婦の糸のように思えます。


​こちらの「触れ」や技の仕掛けは、相手にとって一見すると「逃げられそうな緩さ」に見えるかもしれません。


しかし、そこには人間の解剖学的な弱点や、反射を誘発する角度が緻密に組み込まれています。


相手が「ここから動いてやろう」と筋肉を緊張させた瞬間、その緊張がトリガーとなり、相手自身の骨格をロックする楔(くさび)へと変わるのです。


​いわば、技を極めているのはこちらではなく、相手の「意思」と「力」そのものなのです。


​3. 「毎回同じではない」という変幻自在の怪


​さらに興味深いのは、型稽古の中でこちらは掛けるのを止めるわけではなく、人によって変わるし同じ人でも毎回同じという事がないということ。


​武術の技というと、再現性のある「物理的なレシーブ」と考えがちですが、自縄自縛の理合いはそう単純ではありません。


相手の体格、柔軟性、その瞬間の心の力み、さらにはこちらのその日のコンディションによって、技のニュアンスは千変万化します。昨日完璧にかかった感覚で、今日同じ相手に同じようにやろうとすると、途端に「無理矢理感」が出てかからなくなる。


​この「掴みどころのなさ」もまた、妖怪の定義にぴったりと当てはまります。


​妖怪とは、元来「固定されたモンスター」ではありません。ある人には巨大な影に見え、ある人には美しい女に見え、またある人にはただの風の音に聞こえる。


見る者の心の動揺や、その場の環境(逢魔が時、湿気、暗闇)によって姿形を変える「境界線の現象」なのです。


​八光流の自縄自縛も、まさに現象です。


「この角度で、このポーズをすればかかる」という静的なものではなく、相手の動こうとするベクトル(方向)と、こちらの維持している空間が交錯した瞬間に立ち現れる、動的な現象。


​同じ人間であっても、呼吸ひとつ、目線の配り方ひとつで、技の「かかり具合」は毎瞬変わります。


こちらは技を解いているわけでもなく、かといって強く締めているわけでもない。ただ「最適な関係性」をキープし続ける。


こののらりくらりとした、しかし確実に相手を捕らえて離さない感覚は、妖怪「ぬらりひょん」のような、捉えどころのない怪異の不気味さにも似ています。


​4. だからこそ「ひたすら学習要」――終わりなき妖怪退治の旅


​毎回同じではない。マニュアル通りにいかない。

だからこそ、この術理を身につけるには「ひたすら学習」という結論に至ります。


​この「学習」とは、教科書の暗記のようなものではありません。


変化し続ける相手の身体と、自分の身体との対話を無限に繰り返す、感覚のアップデートです。


​妖怪を退治する陰陽師が、相手の正体(名前や属性)を見極めて術を変えるように、武術家もまた、触れた瞬間に相手の「肉体の正体」を察知しなければなりません。


​この相手は、どこに力を溜めているのか?

どの方向に逃げようとしているのか?


​今、自分のなかに「極めてやろう」という邪念(力み)は生まれていないか?


​脳で考えていては間に合いません。


皮膚の感覚、骨の連動、そして気配の察知。


それらを総動員して、毎回の「違い」を愉しみながら、身体に覚え込ませていく。


​自縄自縛の稽古とは、自分のなかに潜む「力みたい」というエゴ(これも一種の妖怪、「天邪鬼(あまのじゃく)」と言えるかもしれません)を飼い慣らし、相手という未知の怪異と調和していくプロセスなのです。


​まとめ:日常のなかにも潜む「自縄自縛」を解くために


​八光流柔術の「自縄自縛」という現象は、単に護身の技術にとどまりません。


​私たちは日常生活のなかでも、自分で自分を縛り付ける「自縄自縛」の妖怪に取り憑かれることがよくあります。


「こうしなければならない」

「相手を論破してやろう」

「自分の思い通りにコントロールしよう」


そうやって力めば力むほど、人間関係はこじれ、状況は悪化し、結果として自分が生きづらさという罠にハマっていく……。


これはまさに、絡新婦の糸に自ら絡まりにいく現代人の姿そのものです。


​八光流の型が教えてくれるのは、「こちらから無理に仕掛けず、しかし軸をブレさせずに寄り添い続ける」という究極のニュートラル(中立)な姿勢です。


​相手の動きに過剰反応せず、さりとて無視もせず、ある程度の距離感で包み込む。


そうすれば、相手の攻撃的なエネルギーは勝手に霧散するか、あるいは相手自身の中で処理されていきます。


​武術の稽古を通じて「ひたすら学習」することは、自分の身体を妖怪のように変幻自在にし、同時に、日常のあらゆるストレスという怪異をのらりくらりとかわす知恵を身につけることなのかもしれません。


​毎週土曜日、道場で心地よい「自縄自縛」の迷宮に迷い込み、人間という不思議な存在を学習しにいきましょう。